主の御声を聞く 2011年8月1日
先日の 東日本大震災について、直前に、正確に預言した器は、世界中見回しても皆無でした。
また、多くの予告・予知の預言の結果吟味でも、具体的に確認できるものも非常に少なく、いったいどれが成就したのか良く分からないものが多いです。 一方、聖書には、「にせ預言者には気をつけなさい」と書かれてあります。また、「すべてのことを見分け、本当に良いものを堅く守りなさい」ともあります。
果たして、現在の世界の”預言者”と呼ばれる人たちは、聖書に書かれている、主によって任命された「預言者」なのでしょうか?
「預言の賜物」は充分に開かれているのでしょうか? 彼らは、いつも 主との親しい交わりを保ち、主の御前で御声を充分に聞いているのでしょうか?
そして、私たちは、何を基準に信仰の歩みをしていけばよいのでしょうか?
1. 御声を聞くことのみことばの根拠:
御子イエス様の十字架による贖いを信じて救われた私たちは、少なくとも、救われた時に
一度は「主の御声」を聞いたはずです。(* もし聞いていないならば、「救い」を確認する必要があります)
そして、信仰生活のすべてを通して、いろいろな形で 何度も主(聖霊様)の語りかけを受け、私たちのほうからも「祈り」を通して主に語りかけ、このようにして、(堕罪前のアダムとエバにように)主とのコミュニケーションが回復しているはずです。 たとい 弱さによる罪があったとしても、悔い改めながら主を求め続けているでしょう。 そして、主の御声に聞き従う道を選び続けるならば、主の偉大な奇跡を体験することでしょう。 まさに この「信仰の歩み」を生涯歩み続けることによって、私たち一人一人に与えられた、この地上における主の使命を、私たちが全うする事になるのです。
では、この「信仰の種」となる、「主からのメッセージ」をどのようにして受け取るのでしょうか?
「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます」(ヨハネ10:26)
「神は言われる。 終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)
一つには、直接主から聞くことです。 信じて救われ、聖霊様を受けている人は誰でも、直接 聖霊様の語りかけを受け取ることができます。 主の語りかけといっても、”人の声”のようにはっきりと語られることは
まれです。多くの場合、「印象」、「みことば」から、牧師の「説教」から、「断片的な言葉」、「環境」からの示し、そして「夢」・「幻」などです。主は何らかの形で語っておられ、私たちのほうからそれに気付くかどうかの問題です。目が悪い羊は、羊飼いの”声”だけを頼りについて行きます。 これらの程度の差は、単純に、私たちが 主と近いか、遠いかによります。 また、罪があれば、主とのコミュニケーションの障壁となります。
そして、本当に主からのものであれば、必ず「平安」が伴い、救われたときと同じ平安が その言葉や啓示に感じられます。
* 「預言者」の場合は、直接主イエス様から任命され、(「使徒職」と同様に)ある種の”テーマ”を持っています。(たとえば、使徒パウロは「異邦人使徒」、預言者エゼキエルは「終末の国々への預言者」、など) そして、非常に確度の高い語りかけとして、直接的な主のことばを聞き、あるいは、「開かれた幻(手に取るように現実味を帯びたはっきりとした幻)」を見て、その重要なメッセージを取り次ぎます。
もう一つは、「預言」という方法によります。わざわざ他の人による預言を通して、どうしても主がその人に語りたい事柄があります。クリスチャンにとっては、他人からの預言は、今
内側に語られている言葉を よりはっきりと確信させ、信仰の行動を始めるための「確認」となる重要な手段です。また、すでに歩んでいる信仰の道を歩み続ける中では、強力な「励まし」、「慰め」となります。 そして、賜物、特に、預言によって、「教会(における真の品性と働き)を建て上げる」ことができます。
(以下、WWGM フランシス・フランジペン師 5/15 より引用)
「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」」(ヨハネ9:39)
「これこそほんとうのイスラエル人だ。 彼のうちには偽りがない。 ・・・ あなたはそれよりもさらに大きなことを見ることになります。 ・・・ 天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を 上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:47−51)
「心のきよい者は幸いです。 その人は神(=神と 神のわざ)を見るからです。」(マタイ5:8)
「 ・・・ 御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。 ・・・ この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。』」(黙示録4:6−8)
現在の「時のしるし」として警告されていることは、世界情勢や個人的にも非常な危険が迫っている時期であり、この時期に私たちがいるということです。それゆえ、「主イエス様だけにより頼む」ように 私たちの心の態度を改め、変革されていかなければならないのです。
そのためには、私たちの内側の「主からの良いもの」と「一切の汚れたもの」とを選り分け、「汚れたもの」を除去する必要があります。最も厄介なのは、”理性の声”に変装した”敵の声”です。これを見分けて除かなければなりません。(理性の声そのものはそれほど有害ではありません)
そして、”自分は何でも分かっていて、すべてが見えている”などと言う、”宗教の霊にとらわれた高慢なパリサイ人”が”盲目”になり、自分を空にして明け渡し、主イエス様だけを信じ 頼って生きる ”元盲目だった人”が 目が見えるようになりました。
ナタナエルのうちには、狡猾さや偽りがなく、自己欺瞞に陥らないよう自分を守っていました。そのため、旧約聖書にある、人として来られるメシヤについての預言を正確に理解していて、そして今
目の前におられるイエス様を見て、「神の子、イスラエルの王」と、まっすぐに宣言することができたのです。そこで、イエス様は彼に、霊の世界を見る目を与え、「開かれた幻」(オープン・ビジョン)を見るようになる、と言われました。
その理由は、彼の心がきよかったからです。 主に対し心がきよめられた人 ・・・ 罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たちになることこそ、今の時期、私たちに求められています。私たちは「体験」を追い求めているのではなく、清い心を追い求めているのです。ヴィジョンを追いかけているのではありません。 聖さを求めているのです。
使徒ヨハネが見た、前と後、外側と内側にある 「多くの目」とは、霊の領域に開かれている 「すべてを包括的に見る目(ビジョン)」を表し、それは (霊にあって)神の御座にいることによって可能となります。もし私たちが
主と 出会ったことがあり、霊的に生まれ変わっているならば、私たちは「上から生まれ」(ヨハネ3:3)、私たちの霊は、聖霊様を通して、キリスト・イエス様と共に天の御座の前に座っているのです。(エペソ2:6)
そして、イエス様の思いが 私たちの視覚(ビジョン)と一つになることによって、私たちの狭い認知力によっては見ることが不可能なものを、「前と後ろを同時に見るように」はっきりと見ることができるのです。 また、ビジョンはまた「御座の中央」からも来るので、この場合、離れたところにある霊的真理を見るだけではなく、「神ご自身の深みまで及び、探る」(Tコリント2:10)ことができるほど神様と近しい関係になるのです。
また同時に、神のおそば近くに居ることは、私たちに「内側の目」、すなわち、自分の行動の動機を監視する目、罪から自分を護衛する内なる目
が与えられるために、ますます 「神様の聖さ」が見え、一方で、私たちの小さな罪が”重大な罪”に見えてきます。主の御前に居ると、私たちは清く生きるようにと迫られるのです。
旧約の中での「罪」に対する神の裁きの一つは、天が「青銅」になることでした(申命記28:23)。ほとんどのクリスチャンは、このように
天は閉ざされているものと考えています。しかし、主は「あなたがたは天が開けるのをみて、神の御使いを見るであろう」と約束されたのです。
2. 異端と にせ預言者の実態:
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」(Uペテロ2:1)
「すべてのことを見分け、本当に良いものを堅く守りなさい」(Tテサロニケ5:21)
旧約時代は「預言者」(さらに昔は「予見者」 ・・・ 特に、未来のことを予告・予知する者)、新約時代は、「預言者」である、ないにかかわらず、一般に「教師・教職者」について、このような異なる霊の者が現われることが予告されています。”異端”とは、最も根本的な”救いの教理”の時点で間違っている教えを主張する者たちのことです。主によって救われていないので、相変わらずサタンの支配下にあって、神様の霊によるのではなく、悪霊によって偽装し、宗教的に行動する人たちです。もし
一部の教理的な間違いや不完全さがあっても、救いの教理がしっかりしていれば、異端とは言えず、「主の民・主の陣営」の一員です。
卑近な例は、”エホバの証人・ものみの塔”のグループで、彼らは、御子イエス様を
御父よりも低い位置に置き、神の「三位一体」を否定する教理をもっています。これは、通常のプロテスタントから、明確に
霊の異なる「異端」とされています。(”伝道”熱心な所は見習うべきでしょうが・・・)
さて、見分けにくい異端としては、カリスマ・ペンテコステ系の中の異端が挙げられます。 実は、「別の(もう一つの)イエス」、「異なった霊」、「異なった福音」(Uコリント11:3−5)を宣べ伝えるような歴史的な動きが見られ、一部は現在にも引き継がれているのです。この重大な間違いは、ケネス・ヘーゲン師(・・・彼自身は健全な信仰)の弟子にあたる
ケネス・コープランド等の教えにあります。
それは、核心ともいえる イエス様の十字架の場面における、イエス様の神性についての解釈の部分です。そのときイエス様が”霊的な死”を体験された というものです。
・ 彼がすべての人のために霊的な死を味わわれたからです。彼の霊、彼の内なる人が私たちの代わりに地獄に行かれたのです。肉体的な死は、私たちの罪を取り除くことはできません。彼がすべての人のために味わわれたというのは霊的な死のことです。
ケネス・コープランドはそれが十字架上であったと考えます。
・ 彼はサタンの罪の性質をご自分の霊に受け入れた。その瞬間、彼は叫んで”わか神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?”と言ったのだ。
(Kenneth Copeland, What Happened From the Cross to the Throne? cassette
tape 1990, Side B より)
確かに、人類の罪を贖うために、主は、ひと時、霊が父なる神から引き離されました。しかし、決して、サタンの罪の性質をご自分の霊に受け入れたのではありません。「主は、永遠に変わることのない神」です。 したがって、ケネス・コープランドの解釈は、明らかに行き過ぎです。
このような解釈は、ケネス・コープランド以外にも多くのケネス・ヘーゲンの弟子たちによって流布されました。
ペンテコステ派の歴史において、1948年、カナダで発生した”後の雨リバイバル”を、当時のアセンブリーや他のペンテコステ派が”異端”として認定しました。それを、ジョン・ウィンバーがビンヤード教会に持ち込み、いわゆる”カンザス預言者”にも広がりました。(by. レッドアース・ミニストリーのHP)
そして、この教えが、ピーターワーグナー、ベニーヒン、リックジョイナー、ビルハモンに流れているという情報がネット上に多く掲載されています。したがって、彼らの預言するところの”預言”は、中には霊的に異なるものも存在する可能性があるので、充分、「吟味」する必要があるとは思います。(すべての預言は吟味が必要) ただし、この系列が、必ずしも霊的流れをそのまま受け取っていない部分もあるので、そのような場合はそれほど警戒する必要はないと思います。一般の教理は(私的判断ですが、)非常に健全です。むしろ、カリスマ運動を推進しているということで、私たちが応援すべき器たちです。
それよりも、”器批判”、”告発”のほうが、むしろ「にせ預言者」的です。 ”告発”はサタンの性質の一つです。(黙12:10) 彼らは、(使徒、預言者の定義や、それらの働きを充分こなしてきたかどうかは疑わしい部分もありますが、)「教職者」、「伝道者」としては立派にやってこられた人々です。神様によって立てられた”霊的権威”に逆らう方がむしろ危険です。他に「預言の働き」を行なっているところは少ないので、現在は、預言の回復の”黎明期〜成長期”の段階でしょう。 もし、救いの教理のついて間違った部分を持っているならば、速やかに修正し、悔い改めることを希望しますが。
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。・・・」(マタイ7:15、16)
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。
なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を
知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたの
ですが、今それが世に来ているのです。」(Tヨハネ4:1−3)
にせ預言者の情報は、クリスチャン人口の少ない日本にはほとんど入ってきませんが、韓国や米国、オーストラリアなどの”福音先進国”では、クリスチャン人口が多いせいか、中には
とんでもない器もたびたび出てきます。このような”にせ教師”、”にせ預言者”たちのことを、聖書どおり「貪欲な
にせ預言者」と呼ぶべきでしょう。
「預言者」という言葉は、「祭司」と共に、旧約時代には、霊的権威を持ち、指導的・教師的立場にあって、民のために とりなす者、そして、預言や奇跡等
神のしるしと不思議を行なう者として、イスラエルの特別な地位にある人たちでした。これは、直接的には、現在の新約時代の五役者の「預言者」とは異なります。
そのため、いわゆる”間違い預言”をしたからといって、即「にせ預言者」というわけではありません。間違い預言を恐れて、預言を語らない ということこそ問題です。むしろ、あの品性があまり良くなかった、なおかつ、パウロからの霊の注ぎかけによって御霊の賜物が良く開かれていた、コリント教会の人々に対してさえ、「御霊の賜物、特に、預言を語ることを熱心に求めなさい」と強く勧められています。
律法で 預言と預言者が厳しく規定されていた旧約時代でさえも、”間違い預言”は存在していました。 「預言者サムエルの預言は一つも地に落ちなかった」(Tサムエル記3:19)とあるように、他の預言者の場合は必ずしも100%正確に成就しなかったと考えられます。また、ヤロブアム王に預言した神の人を
ねたみによって殺した 年老いた預言者は、以前は主との親しい交わりを持っていたにもかかわらず、無気力のため
にせ預言者にまで堕落してしまいました。(T列13章) そして、ヨナの預言は典型的な実例です。預言は、確かに主からのものでしたが、(ニネベの町が悔い改めたので、)さばきは成就しませんでした。(ヨナ3章) このように、すでに旧約時代から、預言の成就は、すべて条件付です。
新約時代では尚のこと、惑わしの霊が多く解き放たれている「困難な時代」なので、預言はすべて(内なる聖霊様によって)「吟味」するよう教えられています。
一方、にせ預言者の特徴は、第一に、「品性」の悪さにあります。サタンは あらゆることについて神様の真似をしようとしますが、「愛」については真似ることはできないからです。
牧師がオーストラリア人でジェイコブ師(*)の友達という教会に所属している人からの情報によると、海外の情報が直接入ってくるので、海外では常識的に広まっていることが、日本では制限されて伝わってくるそうです。たとえば、海外ではニュースで”自称・預言者”たちのスキャンダル、お金の問題がひっきりなしに報道されているそうです。
筆者も ”変な器”を見てきました。 2003年、韓国系のT.D.教会(韓国長老派、実は教理に異端的なものを含む教会だった)で韓国から招聘された特別講師のI.S.は、”タッチ”によって人々を倒す、また、発熱して火傷するほど熱くさせる(これもちょっと異常)、といったミニストリーをしていましたが、一方、ノートパソコンを見ながら(みことば が頭に入っていない為か?)説教していました。 その後の情報により、彼は 高い講師料を教会に要求し、韓国からの(奥さんではなく)愛人と都内の高級ホテルに宿泊し(世間話スをしていたのではない!)、 その後、アメリカに渡って品性の悪い私生活を送りながらミニストリーを続けていったそうです。
(* シンディー・ジェイコブ師自身は、東日本大震災の後で、日本を裁くような事を語り、彼女が預言した預言(パチンコ屋が教会になる、等)は今の所、一つも成就していないので、霊的に多少ずれているのではないかと思われます。)
主によって何かが示されるということは、その人、あるいは、その示された物事に対して、とりなしの祈りをするよう導かれていることがほとんどです。
JRM(日本リバイバル・ミニストリーズ)の協力牧師である、His ArrowChurchのコンブー・アオウ牧師は、東北に地震が発生する前日(3月 10日の夜)、理由が分からないまま心に葛藤を覚えて疲れ果てるまで異言で祈られました。「神様寝させてください」と
言った時、突然、英語で「神様、どうか東京を地震から守ってください」という言葉が出てきました。その後、眠ることができました。(→ JRM(日本リバイバル・ミニストリーズ))
§ その他の 地震関連の示しと預言の情報: (追加・8/25)
・ 福島第一バプテスト教会(http://f1church.com/)(佐藤牧師とは、一回だけ、JRMの研修会で同室させていただいたことがあります)は、今回
3月11日に水素爆発した福島原発の敷地の、なんと隣にあります。奥様が、20年近く前に、教会員で集団で旅をする夢を何度か見たそうです。(直前ではなく、20年後に成就しました。) 現在、教会員たちと共に、奥多摩福音の家で生活しておられます。立派な新しい教会堂がありますが、残念ながら、非常に激しい放射能汚染のため、そこに帰る事は当分の間(セシウム137の半減期30年)できません。
・ 大和カルバリーの大川牧師は、3/13のメッセージを10日までには、準備していましたが、聖霊様からゴーサインが出なくて、地震のあとに、メッセージを作り直したそうです。
・ 関西のY姉妹の情報によりますと、教会には預言の賜物のある方が3人おられ、その預言は一致しているとの事です。教会に時々来られる母娘の姉妹方は、今年の初めから、2階にいると1階が崩れる夢をそれぞれ1度以上
見て、阪神大震災の前に体験していたのと同様に、地震が来るまで気分が悪かったそうです。
・ 今年初めの、チャックピアス師の預言では、「海のようにあなたを覆うことができる多くの祝福をわたしは備え持っています。これらの祝福があなたを覆うから、入ってきなさい」というものでしたが(by.WWGM)、もし、海の大水が迫ってくる幻を見たのなら、そのまま語ればよかったのでは、と筆者は思います。10〜20年前は、リック・ジョイナー師ももっと良かったように思います。
・ ある海外在住の日本人牧師のあかし:
私は主の明らかな導きによって1978年に現在の所に移ってきました。そうしてこの地にある教会で日本語部の奉仕をしてきました。
この教会は預言が大好きで、1年に何回か預言大会なる集会を開いて、信者の一人一人、希望する者に預言者と呼ばれる人を招いて預言してもらっています。私も勧められて、して貰ったこともありますが、全くの大はずれのことを言われました。教会の熱心な人たちは、何か決断をしなければならない時には、今度の預言大会での預言を聞いてから、決めようと言う人が多いです。何かおみくじでも引くような考えを持っていたようです。
実は教会が分かりにくい場所にあったので、多くの預言者たちが、「信仰をもって、ここから移りなさい。主が凡て必要を豊かに与えて下さるから、信仰をもって行動すべきである」と言っているのを何回も聞きました。動かないのは不信仰だと言わんばかりの預言がなされていたのでした。結局4−500坪あった教会を、一番値段の安いときに売り払ったのですが、現在では3倍は出さねば買えないのです。その結果として、後の場所が与えられずに10年以上が過ぎ、現在は公立の学校を借りて毎週礼拝を持っているのですが、その人たちは後悔はしていないようです。
こちらに在住していますと、クリスチャンTVの番組が24時間放映されており、いろいろなのを見ることができます。ケネス・コープランドは人相が非常に悪くなり、相変わらず物質的な祝福ばかりをいつでも語っています。それを見るたびにおかしいなと思っています。シンディー・ジェイコブが預言なる物をしているを見ましたが、これは違うなと強く感じました。霊が違うのです。大きなことを言うのですが、何も起こらないのです。
私は預言を信じます。確かに神の霊が臨んで、明らかに神からのみ言葉が語られることを信じます。しかし似たようなことを行っても、全く違う場合が多いのは非常に悲しいです。本当に謙って用いられる者となりたいと願っています。
この教会は預言で有名でしたので、アメリカ本土の教会の預言者であるとする牧師たちが、韓国、日本、などの東南アジアの教会に出かけるときには、必ず立ち寄って集会をし、その時に所謂預言なるものをしたのです。そうして私の聞いただけでも7−8回は、別々の人が同じような預言をしたのです。すでにお知らせしましたように、私は聖書に明白に預言の賜物に付いて書いてありますから、それを信じています。確かに主の霊による預言があります。 しかし余りにも簡単になされているような気がしています。
ご指摘の3月11日の大津波に関しても、その預言がなされなかったと言うことは、大きな問題だと思います。終わりのときに、主が多くを語ってくださることを期待しています。
この、以前奉仕していた教会では、預言なるものをされた時には、それを全部録音して、タイプに打つのです。そうしてちょうど聖書のみ言葉を扱うように、この言葉は、この言葉にかかっているのではないかとか、傍線を引いて解釈しようとしていました。そのように、神が語られた言葉として受け入れて、それに従った結果として教会の土地・建物を凡て失うことになっているのですが、それでも少しも懲りていないようです。これが問題だと思います。
私はピーター・ワグナーは、穏健な用いられる器だと思って尊敬していましたが、現在は少し外れているようです。ベニー・ヒンは大きく外れているのが残念です。とんでもないことを言っても、それが間違っていても少しも怖れないのですね。しかし結局主が用いて下さる器が極度に少ないということなのでしょう。
主が真に選ばれた人が、大きく用いられるようになる必要があると思います。こちらでは、イエス様を信じたら経済的に大きく祝福されるという教えが非常に広く受け入れられています。いつも思うのですが、文字通り極貧の中にいる人々の間では、この話はできないですね。